2  経営学とはどのような学問か
私のゼミの内容を説明するために、まず経営学とはどのような学問かということにつ
いて、読者と私の間で合意を得ておく必要があります。
すでに、神戸大学経営学部でなにがしかの授業を受けた学生に対して、経営学とは何
かを質問をすることはバカげているように聞こえるかもしれません。しかし、私が日
常接している学生の多くが、経営学とはどんな学問か、と尋ねられると、次のような
種類の返事を返してきます。曰く、「経営学とは、ビジネスに関する実践的な提言を
与える(あるいは将来社会人となったときに、それを与えることを可能にする)知識
の体系です。」
これは、私が理解している意味での経営学とは違います。末廣ゼミでは、この様な知
識の体系(あるいはその一部)を学生に身につけさせるということは一切していませ
ん。だから、まずこの点の誤解を解くことから始めなければならないのです。
まず、経営学を「実践的」な提言を与える知識の体系、とすることは間違っています。
もしも提言を与える知識の体系ということが、この場合にはこうすればうまくゆくと
いう経験則の集まりであり、それにとどまるならば、それはその経験則を共有する人
々の間での文化に過ぎません。文化は、その文化を持つ人(言い換えると文化の一部
となっている人)にだけ意味がありかつ理解可能です。だから、文化は学問ではあり
ません。
経験科学分野の学問は、経験に関する理解の体系です。もしも、経営学がなにがしか
「実践的」な提言を与えることのできる学問だとすれば、それは経営学がもたらす経
験に関する理解によっているのであって、それ以外ではありません。
この注意にしたがって、「実践的」な提言を与える知識の体系という代わりに、「知
識の体系」に代えて「理解の体系」ということに置き換えることに同意するとしても、
人によってはなお、「実践的」なという点に力点を置いて「「実践的」な提言を与え
る理解の体系」を語る場合があります。例えば、経営学は人が生きていく上で日常的
に必要となるビジネス上の問題、特に人が日々決定を下して実践して行かなくてはい
けない事柄を扱っているのだから、例えば経済成長率や貿易赤字のことを論じる経済
学より「実践的」であり、したがって、経済学よりも提言を与える理解の体系として
の側面が、経営学にはより強く求められる、といったたぐいの議論です。この議論も
また間違っています。現象に関する理解のあり方は、その理解に基づいて何をしたい
かという事から決まるのではなく、問題としている現象の性質それ自体によって決ま
るはずだからです。
そこで、経営学とは何かを語るのに、理解の利用についての言及を一切削ることにし
ましょう。ところが、これを単に削るだけだと、経営学は「ビジネスに関する理解の
体系」ということになります。しかし、これでは不正確です。なぜかというと、次の
ように言う人が出てきてもおかしくないからです。曰く、「ビジネスは、社会におけ
る経済活動の1つの局面である。経済活動全般について、これを論じる学問は経済学
である。だから、経済のマクロ的なレベルでの理解を追求するのがマクロ経済学であ
り、ミクロ的なレベルでの理解を追求するのがミクロ経済学であるならば、ミクロ経
済学で質点として取り扱っている企業をそれ自体内部構造を持ったものとして扱った
ものが経営学で、したがって、経営学は分析対象のレベルがミクロのそのまたミクロ
のレベルにとられた経済学に過ぎない。」
この議論は、例えば次のような議論をしていることになります。星の運行も、リンゴ
の落下も、ある物質の分子を構成する素粒子の振る舞いも、すべて物質の物理的現象
だから物理学の研究するところである。このことを今の我々は疑いなく受け入れてい
ます。さて、「物質の物理的現象の研究」を「経済活動の研究」で置き換えてみまし
ょう。すると、「星の運行」の研究がマクロ経済学に当たり、「リンゴの落下」の研
究がミクロ経済学に当たり、そして「ある物質の分子を構成する素粒子の振るまい」
の研究が経営学という名前の付いた経済学に当たる、というわけです。
この様な分類は、少なくとも今の経済学と経営学の学問レベルでは、間違っています。
確かに、経営学が研究対象とする「経営」という現象と経済学が研究対象とする「経
済」とは、ともに「社会の成り立ちの物質的基礎に関する活動」である、という点で
は同じです。
つまり、我々は皆、日々、物を消費したりサービスを利用したりして生きていますね。
この消費される物や利用されるサービスは、ほとんど全て、たくさんの異なる人の手
を通って、つまりは社会的に、我々の手に届けられている物やサービスです。例えば、
私は車に乗っていますが、その車は日本のある自動車会社が造ったもので、その車が
今私の家にあるまでには、その会社で、その車を設計した人から、私が乗っているそ
の特定の車を生産し、それを販売した人に至るまでの、その会社の多くの人の手を通
ってここにあります。更に、その車の部品の多くは、この車を作っている会社自体で
はなく、多くの部品メーカーによって作られていますから、同じように多くの手が、
ひとつひとつの部品がこの自動車メーカーに届くまでに、かかっていることになりま
す。これは、車を作るということを通じて、多くの人の間に偶然ではない一定の関係、
つまり「社会の成り立ち」が生まれている、ということです。
車を作ることを通じて生まれている社会的なつながりは、この様ないわば直接的な連
携プレーの部分だけではありません。この連携プレーが実現するには、いわゆる自動
車産業として私たちが思い浮かべる自動車メーカー、部品メーカーだけでなく、その
素材である鉄や、ガラスや、プラスチック等々の素材産業が必要であったはずだし、
あるいは自動車メーカーの工場を作るために必要になった工作機械や、建設等々の産
業も必要であり、あるいはその車を作る上で必要な資金を調達するために活動した銀
行や証券会社等々もそうであり、といった具合に芋ずる式にどこまでもどこまでも続
いていく社会的なつながりがあったはずです。
更に、車を作るということが作り出す社会的なつながりは、この様な「作るための直
接・間接の連携プレー」にとどまりません。「作る連携プレー」に登場する各々の人
は、この車づくりの結果所得を得ますが、それを彼自身また様々な物やサービスの購
入に当てます。彼によって買われた物やサービスのひとつひとつについて、再び同じ
様な生産の連携プレーがあったはずです。
この様に、我々が生きていく上で物やサービスを必要としているという、我々の生活
上の物質的な必要性が、我々の社会に、その成り立ちのあり方に一定の、そして特定
の、影響を与えています。これが、私たちが「経営」や「経済」と理解している現象
を、「社会の成り立ちの物質的基礎に関する活動」として統一的に理解できる、とい
うことです。
しかし、この様に統一的に理解できる様々な活動のうち、ある経営現象がなぜ起こる
のかを説明するためのディシプリンは、ある経済現象がなぜ起きるのかを説明するデ
ィシプリンとは異なっています。
それを理解するのに次のような思考実験をしてみましょう。日本語で、誰かが何かを
「経営」するということには意味があります。しかし、誰かが何かを「経済」すると
いうことは文章として意味をなしていません。これは、つまり「経営」という現象は、
その現象が起こる理由が主に誰か(あるいは擬人化された何か)が何かを為す、ある
いは為そうとするということと関係しているのに対し、「経済」という現象はその様
な統一的な意思の範囲を超えた相互関係の結果にかかわっている、ということを示し
ています。
誰かが何かを「経営」する、という言葉の意味をもう少し突き詰めてみましょう。1
997年4月に神戸大学経営学部の新入生を対象として行われた「経営学とは何か」
と題する加護野教授の講演によれば、「経営」という言葉の中国語の古い意味を尋ね
ると、それは、今日我々が住宅をたてる建築現場で目にするのですが、これから家を
建てようとする地面に、ここが台所、ここが居間、ここが玄関、という具合に地割り
をすることだそうです。これはつまり、「経営」するという現象は、
(1)誰かが家を建ててそこに「住みたい」という「成し遂げたいプロジェクト」を
   持っていて、
(2)その為にまず家を建てようとしているのだが、
(3)彼が「住む」住まい方というのが彼の生涯にわたって今の時点で既に完全には
   わかっていれば、細部までそれにぴったりの完璧に仕様が特定された家が建て
   られるのだが、
(4)その様なことは実際には今の時点でわかりようもないので、料理をして食べる、
   寝る、くつろぐ、といった大まかな機能を想定して台所、寝室、居間等々の空
   間を作っておき、
(5)彼が、自分が年齢を重ねて実際に住んでいく過程で、その都度「住む」ために
   必要な機能を、割り振っておいた空間のいずれかを利用して満たしていく
ということに他ならない、ということです。つまり、地割りすると言うことは、自分
が「住む」ということを大まかにデザインすること、そのデザインを用いて後になっ
てから具体的に「住んでいく」ことを想定した上でデザインすること、そうゆう「住
み方」のグランド・デザインのことであり、経営するという現象は成し遂げたいプロ
ジェクトのグランド・デザインをすることだ、というわけです。
この「大まかにデザインする」ということについて2つのことを注意しておきましょ
う。第1に、いくら大まかと言っても、誰がやってもグランドデザインは必ず1つに
なる、というほどに大まかであることは滅多にありません。例えば家を建てるのに、
いくら「住み方」の大まかなデザインとは言っても、「住む」というプロジェクトが
人によって異なっている程度に応じて、そのグランドデザインも異なってくるに違い
ありません。例えば、画家が家を建てるとしたら、我々普通の人間が「住む」のとは
違って、そこに「アトリエ」が不可欠になってくるでしょう。
第2に、グランドデザインの大まかさは、後でその大まかさの範囲を使って具体的に
プロジェクトを成し遂げるということを想定している点で、具体的な「使い方(住ま
い方)」を潜在的に定めています。例えば、生活のある時点で思いもかけず大人数の
ホームパーティーをする事になったとします。この目的は、料理をして食べる(台
所)、寝る(寝室)、くつろぐ(居間)等々のこの家を建てるときに想定していた家
のどの機能にもフィットしません。しかし、もしこの様な事態が起きたら、それを解
決する担当は居間しかない、ということがあらかじめ指定されていたことになります。
なぜなら、居間が、この家の中で最大の空間を与えるので、大人数を一度に収容する
機能を果たせるのはここしかないからです。
「経営」するということが、プロジェクトを成し遂げるためのグランドデザインをす
ることだ、ということを、「住む」というよりももっとプロジェクトらしいプロジェ
クトを例にして、もう1度のべ直してみましょう。例えば、今度は、ある建設会社が
できあがった設計図に基づいて実際に1軒の家を建てる、というプロジェクトを考え
てみて下さい。このプロジェクトは勿論1人の人間で出来るほど単純なプロジェクト
ではありません。そこで、まず建設会社は、必要な仕事の大まかな割り振りを行いま
す。例えば、柱を立てたり、ドアを作ったりは大工さんがする、台所は水道屋さんが
する、といった具合です。さらに、天候によって出来る作業と出来ない作業とがあり、
また様々な外的な要因で工事のピッチが狂うこともあるので、その都度工事の段取り
を調整していく人として現場責任者をおくかもしれません。建設会社が、このプロジ
ェクトを経営するというのは、この様なチームを作るということです。これが、グラ
ンドデザインするということです。
この時、プロジェクトの進め方はおおまかにしか決められてないという点が大切です。
例えば、柱を立てるのは大工さんの仕事だと決めてありますが、大工さんが柱を立て、
それをつなぎ合わせて家の骨格を作るとき、釘をどの位置にどのように打つかは、建
設会社は決めていません。それは大工さんに任せてあり、まかせてあるということを
決めているだけです。つまり、釘の打ち方を決める決め方(釘の打ち方は大工さんが
決めるというやり方)を決めているだけです。
他方、決め方は大まかであるけれども、プロジェクトが必ず完成するよう、工事の過
程で何が起きてもとにかくそれに対処して仕事を進めていけるよう、仕事の割り振り
の中に決定手続きが組み込まれているはずです。例えば、台所の配管工事のため地面
を掘削したところ予定していた場所が配管に適さないことがわかり、配管場所を変更
しようとしたところ家の玄関位置の変更が必要となり、等々のような玉突変更が起き
ざるを得なくなったとしましょう。この時、この変更を確定しないことには、水道屋
さんは台所を完成させることは出来ません。しかし、玄関位置を変更するとなると当
然大工さんの仕事が変わってくることになります。水道屋さんと大工さんは、彼らの
持ち分である台所の配管と玄関の工作という仕事をどう進めていけばいいのでしょう。
この場合、例えば現場責任者が工事の再設計の権限を与えられていて、水道屋さんと
大工さんの専門意見を聞いた上で彼の判断で配管位置を決める、というようなことが
なされるでしょう。配管を変更しなければならなくなる可能性や、代替的な配管位置
等があらかじめ建設会社によって決定されているのではなく、設計変更の必要(例え
ば、配管変更の必要はそのひとつ)が起きたら現場責任者が決めるということだけを
決めておくことで、現に予想しなかった配管変更に対処できるようになっているわけ
です。
以上述べたことを一般化していうと、「経営」するということは、
(1)プロジェクトを成し遂げるために
(2)その都度決定しなければならいことが起きたときそれをどのように決めるかと
   いうことを含めて
(3)複数の人の間で各々の仕事の割り振りを
(4)大まかに決める
というプロジェクトの成し遂げ方のグランドデザインをすること、ということになり
ます。
経営学が学問として成立するのは、このグランドデザインが描かれるという現象が、
今のところ我々の理解を超えているからです。成し遂げるべき事が同じである様に見
えるときでも、時と所によってそのプロジェクトの為に描かれるグランドデザインは
様々に多様です。いったいなぜその様なグランドデザインが描かれるのでしょうか。
さらに、グランドデザインが違えば、その同じ事が成し遂げられうる程度が明らかに
違ってくる、ということがあります。これはいったいなぜでしょう。このグランドデ
ザインの不思議を解明しようとする科学、これが経営学だと言えます。
社会の成り立ちの物質的基礎に関する活動を理解しようとするとき、その活動の性質
を左右している原因が、その活動があるグランドデザインの中で行われているという
ことに主として由来している、と考えられるものは多様にあります。言い換えると、
あることを成し遂げるためにその成し遂げ方がデザインされた(あるいは設計され
た)、という観点から理解することでその活動がもっとも良く説明できたり、予測で
きたりするものがあるということです。利潤を追求する企業の活動、非営利的な目標
を追求するNPO等々の大きな組織全体の活動から、それらのサブレベルの管理システ
ム、情報システム、流通システム等々の活動、更に小さなプロジェクトチームの活動
まで、様々です。経営学は、これらの現象についての我々の理解をめざす学問です。
他方、同じ社会の成り立ちの物質的基礎に関する活動でも、その活動の主な性質が、
明らかに1つのグランドデザインの影響の範囲を超えた所に由来するものがあります。
たとえば、市場における一般均衡、経済政策の効果、国際経済の機能等々です。これ
らの現象について理解するには、異なる人間の経済活動があらかじめ何らかのグラン
ドデザインに従ってなされるよう想定されたのではない状況での、これらの活動の相
互関係のもたらす結果を理解する枠組みが必要になってきます。つまり、これらの現
象は、人々の間のインターアクション(あるいは相互作用)がもたらす性質として初
めて良く説明できたり、予測できたりするのです。この様な人々の経済活動のインタ
ーアクションの性質を理解する枠組みを提供しようとするのが、経済学です。
もとに立ち返って重要な点を確認すると、前者のカテゴリーの活動を説明するディシ
プリン(経営学)と後者のそれ(経済学)とが異なっている、ということです。もし
かすると、物理学のように、将来何らかの「統一理論」が打ち立てられて社会の成り
立ちの物質的基礎に関する活動のすべてを統一的に理解できる日がくるかもしれませ
ん。しかし、今の所、経営学は経済学とははっきりと異なったディシプリンに基づい
て、そのディシプリンが適用できる範囲の現象を研究する、経済学とは独立した学問
にとどまっています。そして、この独立した、という意味が、研究対象が企業レベル
以下のミクロ的対象という意味ではなく、現象の説明原理の違いによることを理解す
ることが大変重要なのです。
末廣ゼミは、この意味での経営学の勉強の機会の一つ、つまり我々の社会の成り立ち
の物質的基礎が「個人の力では成し遂げられないことを複数の個人の協同によって成
し遂げようとするときのグランドデザインにいかに依存するか」を理解する機会の一
つ、となることをめざしているのです。



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